(『サブカル通信』第6号-1996年発行-掲載)
【取材&文=山背悟平 構成=血祭鉄兵】
【数字と人 第1回-321-】
本コーナーの趣旨は毎回ある数字を縦の軸(キーナンバー)として、
そしてその数字にまつわる人物を横の軸として話を展開していくものとする。
第1回目の数字は“321”で、テーマはズバリ
「3割2分1厘」。
つまり、“プロ野球選手の打率としての3割2分1厘”ということで話を進めていこう。
1シーズン、あるいは生涯を通じての安打率3割以上の成績を残すということは
バットマンの夢であり、また勲章でもある。
日本のプロ野球界におけるシーズン最高打率はバースの3割8分9厘で、
また4000打率以上の通算打率においてはレロン・リーの3割2分が最高である。
日本のプロ野球発足以来60年間で17名の選手が
シーズン打率3割2分1厘の成績を残している。
その選手を古いものから列挙する。
1936年・山下
実(阪急)、
1940年・鬼頭数雄(ライオン)、
1949年・別当
薫(阪神)、
1951年・安居玉一(大洋)、
1954年・大下
弘(西鉄)、
1955年・戸倉勝城(阪急)、
1961年・杉山光平(南海)、
1971年・加藤秀司(阪急)、
1980年・福本
豊(阪急)、
1983年・スティーブ=オンティベロス(西武)、
1984年・レオン=リー(大洋)、
1985年・トミー=クルーズ(日ハム)、
1986年・アンソニー=ブリューワ(日ハム)、
1987年・中畑
清(巨人)、
1989年・落合博満(中日)、
1994年・前田智徳(広島)、
……と、そうそうたる顔ぶれ。
全て当代一流の大打者達だったわけであり、
打率:3割2分1厘はフロック(まぐれ)では
残せない成績だということが分かって頂けたと思う。
左打者8人、右打者8人、スイッチ1人というところから、
左右の格差も全くないことがわかる。
1936年秋の山下
実は、1924年に中等学校野球で甲子園第1号本塁打を放っている。
そのパワフルな打撃で「怪物」の怪をとって「怪ちゃん」などと呼ばれた。
後に慶應大学で4番を打ち、
日米野球(1931年)の時も全日本の4番を打ち、
阪急創立と同時に入団し、これまた4番を打った。
通算打率は、2割6分1厘。
1940年の鬼頭数雄は、ライオンの4番打者。
同年、3割2分1厘で首位打者となるも、
1944年、マリアナ諸島沖で戦死。
通算打率は、2割7分7厘。
1949年の別当
薫は翌年に本塁打&打点の二冠王となり、
毎日オリオンズの日本一に貢献、初代MVPとなった。
後に毎日→近鉄→大洋→広島の監督を歴任、土井正博らを育てた。
通算打率は3割0分2厘。
1950年の飯島滋弥は、1952年に首位打者獲得。
引退後は東映で二軍監督を務め、大杉勝男らを育てた。
通算打率は2割8分2厘。
1951年の安居玉一は特に目立った成績は残してはいないが、
阪神を振り出しに引退まで5球団も渡り歩き、どの球団でも
主力打者として活躍した。
通算打率は2割6分7厘。
1955年の戸倉勝城は1950年毎日創立と同時に入団。
35歳という高齢ルーキーだった。
なお、パ・リーグ第1号本塁打は彼が打っている。
阪東妻三郎似の精悍な顔つきで、TVのCMにも起用されたことがあった。
通算打率は2割8分3厘。
1961年の杉山光平は1959年に南海にて首位打者を獲得。
バットを寝かせて構える独特のフォームで快打を連発した。
野村克也が台頭してくるまで南海の4番を努めた。
通算打率は2割7分9厘。
1985年のトミー=クルーズは、在籍6年で3割4回の好打者。
1984年にはベストナインにも選ばれた。
通算打率は3割0分1厘。
本来ならば全員紹介したいところだが、
残りの選手は説明不要の大選手ぞろいだったので、
敢えて割愛させてもらった。
次回のキーナンバーは「2」。
綏靖天皇(すいぜいてんのう)などについて。
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